COLUMN
論考2019/11/19
大阪湾北部の海洋文化と空間の多様性について
−のせでんアートライン2019をめぐる私論−/山田創平
1はじめに
2手法と文献
3記述の傾向
4海洋文化と金属の関係
5住吉信仰
6雨乞
7海洋文化と星の信仰
8「非農業民」という海洋文化
9作品について
1はじめに
場所は誰のものでもない。
いま公園になっているその場所は、以前は公園ではなかったし、いま畑になっているその場所は、以前は畑ではなかった。いま寺院となっているその場所は、以前は寺院ではなかったし、いまひとが住んでいるその場所には、以前は誰も住んでいなかった。
場所の「普遍的」所有者は存在しない。その意味で場所は誰のもでもなく、同時に、この世に存在し、これからも存在するであろう、すべての人々のものである。そしてその意味で世界もまた、誰のものでもなく、同時に、人間を含む全存在のものである。
場所とはつまり、寛容で雑多で流動する世界のひとつの断面であって、それは一見静かに見えるが、だが同時にそこには、驚くべき密度ですべてが存在し、そこでは驚くべき速さですべてが流れ去っている。だが我々はしばしばそのことを忘れる。
「この声はどこかで聞いたことがある」
2019年11月18日、「のせでんアートライン2019」を歩いた時、わたしはずっとそう感じていた。もうここにはいない人。遠い過去を生きた人。会ったこともなく、話をしたこともないが、だが、私はその人の声を聞いたことがある。そんな気がしてならなかった。人が生きるということには、原理的に何の意味も存在しえない。だが人は生き、かすかな痕跡を残して去ってゆく。その痕跡を聞き、想い、自分もまたこの世の砂粒のひとつであると感じることが、生きるということそのものであったはずなのに、人は土地を「所有」し、他者の痕跡を消そうとつとめ、自らと異なる者を排除する。かつて私は「場所が多様性を失う時、その場所は命脈を閉じる」と書いたことがある。だが現在の社会において、その流れはとどまるところを知らない。
私が聞いた「声」とは何だったのか。そのことに対する私なりの考察を、以下で述べたいと思う。ここで私が描こうとするのは、能勢という場所のもうひとつの姿であり、今はほとんど忘れ去られているが、かつて確実に存在した人々の姿である。それを知るうえで、書かれたものをたどることは、おそらく有意義である。
2手法と文献
本論においては、社会学的な手法を用い、「能勢」とその周辺地域の空間性を分析する。同地域に関する基本的な地誌、情報はそれぞれの史書を参照頂くとして、ここでは、それらテキスト群を横断的に読み込んだ時に浮かび上がってくる「能勢」という地域に関して書かれたものの帯びる「記述の傾向」、また「あるテキスト」と「別のテキスト」の照応関係において明らかになる「語られること」と「語られないこと」を重視する。個別の歴史的事象に関する事実関係や正誤はここでは問題としない。ここでは主に近代以降、当該地域に対する語りがどのような傾向を持つのかを調査し、その過程で切り捨てられ、語られなくなった諸言説を掘り起こし、当該地域に対する語りの多様性を復元する。このことによって当該地域の地域性や空間性に対するオルタナティブな視点を得られると考える。
基礎文献として、大日本地名辞書「上方」(吉田東伍、1900年)、日本歴史地名体系「大阪府」(1986年)、角川日本地名大辞典「大阪府」(1983年)、「地名語源辞典」 (山中襄太、1968年)、「吉川村史」(未公刊原稿の1990年の出版、原著は1919年頃)、「能勢町史」(出版年代は多岐にわたるので引用の際にそれぞれ明記する)、「豊能町史」(出版年代は多岐にわたるので引用の際にそれぞれ明記する)、「猪名川町史」(出版年代は多岐にわたるので引用の際にそれぞれ明記する)、「東能勢村史」(1992年の復刻版、原著は1919年)、「川西の歴史今昔―猪名川から見た人とくらし」(小田康徳、神戸新聞総合出版センター、2018)、北淡町史(1975)、海と列島文化(出版年代は多岐にわたるので引用の際にそれぞれ明記する)、日本神話事典(1997、大林太良)を用いた。また、筆者による過去の調査、また他の研究者の著作を随時参照し、検討可能な他地域との関連性についても検討する。その際には都度、引証を付する。
3記述の傾向
基礎資料を通覧してまず指摘できることは、同地域に関する空間記述の二重性である。客観的で、科学的であろうとする記述と、主観的で推測が多用される記述が存在する。もとよりこのような二重性は、各地のテキスト群を検討しているとよくあらわれる二重性ではあるのだが、同地域には他地域にはない特徴があるように感じられる。それは推測による記述の部分の「控え目」な印象である。これは、テキスト群そのものが控え目であることを意味しない。テキスト群、とりわけ能勢町史は、他地域の正史に比べて大胆な記述が多くあり、挑戦的な著作である。例えば以下の部分などは注目に値する。
(縄文時代の稲作に関する記述の部分で)私が思うに、ひとつはつい最近までわが国の知識人の頭脳を大きく規定していた、マルクス主義の直接的もしくは間接的呪縛によるものである。この予定調和的歴史観に基づくイデオロギーは、生産力の発展がいままでの生産関係を破壊し、やがてはよりよい生産関係、すなわち社会主義から共産主義へと社会を導いていく、という一種のユートピア史観であった。(『能勢町史第一巻』能勢町史編纂委員会、2001年、124頁)
マルクス主義的イデオロギーはわが国においてはまた、「稲作は生産性が高い、だから余剰を生み出す、その帰属をめぐって社会は富める人と貧しい人々、支配階級と被支配階級に分裂していく」というような命題をつくりあげた。しかしながら、稲作は生産性が高い、あるいは余剰の争奪合戦が階級社会を成立させた、というような決めつけが、いまだかつて事実に基づいて証明されたことはない。(『能勢町史第一巻』能勢町史編纂委員会、2001年、125頁)
私はこれまで多くの地域の県史や市史、町史などを読んできたが、ここまで歴史認識や歴史学上のイデオロギー論争に踏み込んだ記述は全く見たことがない。また同書には偽書説のある『先代旧事本紀』第五巻からの引用もある(『能勢町史第一巻』能勢町史編纂委員会、2001年、284頁)(この点に関して私は先代旧事本紀を偽書とは考えていない)。またこれらの書物には一般的に主語が存在しないのだが、豊能町史には以下のような記述が存在する。
しかし私は土蜘蛛として記されているものは、ただ朝廷に反抗したというだけでなく、やはり一般の農業民とは風俗を異にする非農業民であった可能性が高いと思う。朝廷に反抗して誅殺される土蜘蛛【つちぐも】というといかにも悪役のようであるが、しかしこれも服属の由来を物語る一種の起源説話と考えれば、王権と非農業民とのかかわりを示す史料に加えることも可能であると思われる。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、86頁)
ここでは、「私は~思う」という語り口で正史が語られる。このような個人的な意見が書かれることも極めてめずらしい。このような積極的でラディカルな記述がある一方で、同地域に関する正史をはじめとした様々な資料にはたえずある種の「控え目」さがつきまとう。それは端的には「水の文化」に関する部分、さらに言えば文化的基層や文化の普遍性への言及に関してである。
同地域は諸資料を見る限り、明確に「水の文化の場所」である。諸資料にもそう解釈してもよさそうな記述は数多くあるが、それが海の文化、水の文化、日本列島の基層的な文化へと接続されない。同地に海の文化が存在するであろうことは、実際に諸資料を読む前から予測はしていた。瀬戸内地域やそれと関係する東海地域、日本海沿岸地域を長らく調査してきた私から見れば、それはいわば当然の結論ではある。しかし、同地に関する資料の中にはそのような価値観がほとんど現れない。また「地名語源辞典」には能勢という地名に関して以下の記述がある。
もと野狭(ノセ)の義という。一帯に山地で、妙見山、天台山などがある。ノセとはまたノセ(ハシタカというタカの一種)の名にもとづくともいう。また野瀬(兵庫、滋賀)、野迫(奈良)、能瀬(石川)、濃施(福岡)と書く地名もある。畑中友次氏はアイヌ語nos, not(鈍角のアゴのような岬)のなまりだという。(山中襄太『地名語源辞典』、1968年、279頁)
しかしながら、アイヌ語起源説について、正史では全く検討された形跡はない。海洋文化と同様に、いわゆる非農業文化に対しては言及していない。同じ瀬戸内地域に関しては、例えば北淡町史には次のような記述がある。
海人は南方から漂着した海人族の一派であるという考え方に立って見るのもおもしろいことである。この点については淡路における地名・物名・ことばの中に海人族語系に属するか、それに近いものが多いことに気がつく。(『北淡町史』町史編纂委員会1975、122頁)
また大分県国東半島も瀬戸内地域であるが、同地に関しても以下のような記述がある。
国東半島には、古くは神武天皇の御東征をはじめ、辛国より渡来したヒメコソ神の物語り、また景行天皇の西征にまつわる伝承など、スケールの大きいものがある。なかに、八幡大神に遊行・飛行する話などは目を見はらせるものがあり、それからすれば、国東半島を巡る歴史・社会の展開は、“まず海より始まる”と言い得ようか。(富来隆、三宮正信「国東文化の地位−八幡大神と六郷満山」『国東半島−自然・社会・教育』所収、大分大学教育学部、1983、2頁)
またいわゆる由良川加古川ライン(氷上回廊)によって瀬戸内地域と日本海側に文化的な交流を見る観点から、以下の記述も興味深い。大阪湾北部は舞鶴湾、若狭湾と文化的に強いつながりを持つ。この文化的つながりは、19世紀末に成立する阪鶴鉄道などにも見ることができる。阪鶴鉄道はまさにこの由良川加古川ラインの分水嶺、石生【いそう】を通っている。また若狭湾沿岸地域に存在する両墓制が能勢にも存在している事実は重要と思われる(『能勢町史第五巻』272頁―274頁)。両墓制は遺体を埋葬する「いけ墓」と、参拝するための「参り墓」を別け、離れた場所に造営する墓制である。両墓制は全国的にみられるが、「いけ墓」と「参り墓」が極めて近い位置にある(株墓)という特徴は、若狭湾沿岸地域の特徴と同様である。以下、舞鶴や若狭湾沿岸地域での海洋文化に関する記述を列記する。
南方の海のかなたから、丸木舟をあやつる人たちがやってきます。日本海に入りさえすれば、海流にのって、この若狭湾を中心とする地帯に、たどり着くことができたでしょう。(舞鶴のあゆみ、5頁、1988、舞鶴市郷土資料館)
若狭湾に臨むこの地方にも、「オーシマ」「オシマ」「アオシマ」は4か所あります。この島の神々は、先ず往々にして女神で、地先の島に女神を祀る信仰圏は(中略)広く、太平洋地域への広がりをもっています。(舞鶴のあゆみ、5頁、1988、舞鶴市郷土資料館)
雄嶋参りは、競漕の形で行われてきましたが、これは中国南部にその発祥をもつとの研究が進められている倭人の祖にかかわる汎太平洋圏の海洋民族の祭祀習俗であり、華南・沖縄・長崎、近くは出雲美保神社の諸手船神事と同様の龍神信仰の東限地であると考えられています。(海といのり、舞鶴市郷土資料館、1985)
先ず第一に出雲種族が今の北陸地方と往復していたようですから自然ここにも住みついて入っていたと考えられるのであります。(中略)眼下にひらける日本海を見ながら昔の人が小さい船に乗ってここと大陸との間を往復したことなどを考えまして悠久な自然の生命を思わずにはいられませんでした。(舞鶴史話、7頁―9頁、1954、舞鶴市)
志高の古代人は、出雲系の文化をもち、サケにのってやってきた大川神社の神(これは、冠島の天火明神でもある)を氏神とする海洋系の人々であり、竪穴住居を作り、ひろく、青葉山周辺や、志楽の里まで(「天火明神の別名を志楽別という」籠神社海部系図)生活圏をもっていた人びとであったと思われます。 (舞鶴のあゆみ、5頁、1988、舞鶴市郷土資料館)
これらの事例はあげれば限りないが、一方で能勢に関する記述の中に海洋文化のイメージはほとんど存在しない。例えば前述の舞鶴史話では出雲との関係が記述され、同時にそれが海の文化であることが記述されるが、豊能町史では次のようになる。
摂津の国の神人【みわひと】氏は、大国主命の五世の孫である大田々根子命【おおたたねこのみこと】の子孫であるという。大国主命はいうまでもなく出雲神話の主人公である。その大国主命を祖先と仰ぐ神人氏は、出雲系の氏族であるとみてよいであろう。大国主命を祖とする有力な氏族に、大和の豪族で大三輪神社に関係の深い大神朝臣【おおみわのあそん】氏があるが、能勢郡の神人【みわひと】氏は同じ出雲系の氏族として、この大神【おおみわ】氏となんらかのつながりをもっていた可能性がある。(中略)この地方で出雲系の氏族が有力であった理由は明らかでないが、北方の丹波地方を通じて山陰の影響が及んでいたことも、一つの可能性として考えられるのではなかろうか。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、90-91頁)
まず久佐々神社は、能勢郡の母体となった久左佐村と名称を同じくするが、社伝によると祭神は賀茂別雷神【かものわけいかづちのかみ】である。この神はその名の通り雷神で、有名な京都の上鴨神社(原文ママ)の祭神として知られている。賀茂がつくのは、それが鴨神の系統であることを示している。鴨神としてもっとも有名な大和葛城の鴨の大神は、『古事記』によると、出雲の神である大国主神の子の阿遅鉏高日子根神【あじすきたかひこねのかみ】の別名で、これまた雷神である。したがって久佐々神社の祭神も出雲系の神とみてよいであろう。前節でみたように、能勢郡の郡司であった神人氏も、当地方と関係の深い土師氏もともに出雲系の氏族であるから、久佐々神社は両氏のうちのいずれかの氏神であったのであろう。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、101-102頁)
能勢と出雲とのつながりは諸資料の随所で指摘されるのだが、そこに海洋文化に関する記述は一切現れない。例えば『川西の歴史今昔』には以下のような記述がある。
なお、猪名川の流れがその沿川に暮らす人の心に深い感慨を催していたことは、古代の万葉集の歌もさることながら、近代に入っては、明治末から戦前・戦中期にかけて作家として活躍した上司小剣【かみつかさしょうけん】の例もあります。上司小剣は多田神社宮司の家(紀氏)に明治七年(一八七四)に生まれ、明治三〇年(一八九七)までそこで過ごした人物です。(『川西の歴史今昔―猪名川から見た人とくらし』小田康徳、神戸新聞総合出版センター、2018、188頁)
ここに出てくる紀氏に関して、折口信夫は次のように述べている。
後期王朝以後、私称的にも、国造を称することを認められていたのは、出雲臣一族だけであった。そうして延暦の格によれば、此と共に、宗像などの私称は諱まれたらしい。尚一家紀氏なども亦、その出自出雲氏なるが為か、国造を私称することを捐てなかった。此から見れば、宗像の之を称へて居たことも、三女神以来、出雲に関係の深い処から来ているのかも知れぬ。(「宮廷儀礼に民俗学的考察」『折口信夫全集第十六巻』折口信夫、中央公論社、1956、251頁)※旧字体は現在の字体に、旧仮名遣いは現代の仮名遣いに変更した
紀氏が出雲に起源があるとの折口の指摘は重要であろう。多田神社宮司家の紀氏と出雲との関係が現在どのように伝承されているかは別途調査する必要あるだろうが、この記述は、能勢と出雲とのつながりを示すものと考えられる。出雲が海の支配に秀でた文化圏であったことはこれまであまたの研究者が指摘しており、ここで再論しないが、この一点をもってしても、能勢が海洋文化の地であることがわかる。ちなみに紀氏は刀工として名高い。いわゆる豊後刀の大成者としてしられる紀行平(13世紀ごろ)の代表作「古今伝授の太刀行平」(永青文庫所蔵)は国宝に指定されている。ここから、海洋文化と金属の関係が見えてくる。また前段の引用にあるように、出雲系の神々は多くが火雷神であり、火雷神もまた海の神々であるので、ここにもまた海洋文化とのつながりを見ることができる。火雷神を祀る天満天神信仰は北野天満宮が有名だが、星辰信仰の天満社の家系の出である菅原道真はもともと土師【はじ】氏である。土師氏が出雲系の氏族であることは、上記、豊能町史本文編からの引用の通りである。
4海洋文化と金属の関係
角川日本地名大辞典「大阪府」(1983年)にあるように、「能勢」の初出は和銅6年(713年)であり、『続日本紀』にその地名が見える。この記述は象徴的で、能勢はまさに金属と共に歴史に現れるのである。同じく『続日本紀』には、和銅という元号が武蔵国から銅塊が献上されたことを記念したものであると語られる。能勢での銅採掘に関しては、日本歴史地名体系「大阪府」(1986年)によると、伝承上の初出は東大寺縁起で天平14年(742年)である。しかし能勢町史も川西市史も扶桑略記を典拠として長暦元年(1037年)としている。金属の精錬に関して、かつて民俗学者の谷川健一は次のように指摘している。
金廷鶴は、『韓国の考古学』の序説で、さきの「国は鉄を出だす」の国は辰韓をさしたものと一般に考えられているが、むしろ弁韓のことではないかと推測して、つぎのようにいう。「楽浪郡(後には帯方郡とともに)重要な貿易品であった鉄と、日本における大和国家の統一の原動力となったであろう鉄材と鉄器は弁韓の地、すなわち加羅から供給された可能性が強い。故に三世紀以降五世紀までの日本における鉄鋌【てってい】および鉄器の輸入と加羅との関係が新しい観点から考察されなければならないであろう」こうしてみると、博多湾頭に根拠をもつ阿曇氏も辰韓(じつは弁韓)の鉄鋌【てってい】を運んで倭国にもたらしたことが想像されてくる。(谷川健一『甦る海上の道・日本と琉球』文藝春秋(文春文庫)、2007、48—49頁)
文中に出てくる阿曇氏(安曇氏)は海洋文化とつながりの強い氏族である。海洋文化とつながりの強い氏族にはほかに住吉氏、宗像氏などがいる。また本稿では詳述しないが、長野県の安曇野はこの安曇氏と関係がある。海洋文化を示す言語表記は海沿いにだけ存在するとは限らない。海洋系の氏族に関して、大阪府立弥生文化博物館は以下のように述べている。
海人の系譜は二つに分かれるが、北部九州辺りで渾然となったらしい。とはいえそのなかでも、漁労以外に航海術に長じた安曇・住吉系の海人の文化は、瀬戸内海、紀伊、伊勢湾、東海から北に広がり、磯漁、潜水漁労に特色づけられる宗像系の文化は、どちらかといえば、玄界灘、響灘から日本海沿岸に卓越すると考えられている。(青いガラスの燦き―丹後王国が見えてきた―大阪府立弥生文化博物館図録24、83頁、2002、大阪府立弥生文化博物館)
古来、いわゆるたたら製鉄が成立する以前、日本列島には鉄を精錬する技術はなく、谷川が指摘するように、精錬済みの鉄の塊、鉄鋌【てってい】を船で運搬し、日本列島内で製品化していた。鉄鋌の運搬には高い航海技術が求められ、谷川らは、その役割を安曇氏など海洋系氏族が担っていたとしている。大分大学教授で古代史家の富来隆は海洋系氏族と金属との関係を以下のように指摘している。
古代海人族の活躍。それが目に見えるようである。彼らは海上の往来のみならず、銅・鉄など鉱業技術をもって、神々に仕えた。宗像の神、八幡の神、そして住吉の神。これらの神々は、いずれも海人族(海部・安曇)の奉仕する神々であった。(富来隆、三宮正信「国東文化の地位−八幡大神と六郷満山」(『国東半島−自然・社会・教育』所収)、大分大学教育学部、1983、7頁)
能勢の銅採掘は11世紀以降だが、この古代からはじまり紀行平(13世紀)へと至る海洋文化と金属との関係が能勢の銅採掘に影響を及ぼしていたことは十分に考えられる。能勢採銅所の鎮守は野間神社である。この点に関して能勢町史第一巻は「野間神社は天喜年間(11世紀)に今の奈良県天理市にある石上布留神社【いそのかみふるじんじゃ】を勧請したもの」(284頁~285頁)だとしており興味深い。石上【いそのかみ】は饒速日【にぎはやひ】を祀る物部氏の神社である。物部氏は石上神宮所蔵の七支刀(国宝)で知られる通り、鉄器製造と武器製造の職能氏族である。饒速日は天磐船に乗って天降ったとされるが、天を移動する船は天体を乗せて移動する船のことであり、日月や星辰と同意である。日本神話事典では猿田正祝が太陽船の信仰は南方海人族【あまぞく】の信仰であるとしている(189頁)。
ここまで見てきた通り、能勢には出雲との関連をうかがわせる要素が多数あり、出雲は海洋文化圏であり、海洋文化と金属は密接な関係がある。そして能勢は古代から中世にかけて、金属製造の重要拠点であった。このことから、能勢における海洋文化、そして谷川健一は海洋文化に川を加えるべきであるとしているので川も含めた海洋文化が、能勢におけるオルタナティブな文化的系譜として見えてくる。ところで能勢町史第五巻第二節「丹州・能勢街道を歩く」の「古江」の項に次のような記述がある。「峠を下れば古江の集落で大昔にはここまで海が湾入していたという」(324頁)。古江は現在の池田市古江町だが、現在の海岸線から15km以上内陸に入った場所である。町史の言う「大昔」がいつなのかははっきりとしないが、この指摘は能勢がある時期、現在よりも海岸線が北入しており、入り組んだ入り江のような地形であったことを伺わせる。
5住吉信仰
能勢と海との関係をさらに考えたい。能勢は住吉大社とのつながりが深い。それにはいくつかの理由があるが最も大きな理由はいわゆる「住吉領」との関係であろう。大阪湾北部、播磨灘にかけての地域は古代において住吉大社の領地であった。
古代における住吉領は、摂津国(大阪府北部と兵庫県東部)を中心に大阪湾から播磨灘沿岸、さらに安芸、長門(山口県西北部)におよぶ広大なものであった。ことに摂津国は、住吉大社造営料国として、神主津守氏が支配し、摂津一宮として住民との結びつきを強めた。(印南敏秀「住吉信仰から金毘羅信仰へ」『海と列島文化9・瀬戸内の海人文化』小学館、1991、218頁)
またそもそも住吉信仰は神話上にみえる神功皇后の朝鮮半島出兵に際し、住吉三神が船団を導いたとの故事に由来するとされる。神功皇后の遠征に関しては、能勢地域にはよく知られた伝承がある。
この点で興味があるのは、能勢地方の周辺にも土蜘蛛が存在したことを示す史料があることである。すなわち『住吉大社神代記』によると、豊島郡と能勢国の中間に城辺山【きのへやま】があるが、これは土蛛(土蜘蛛)が山上に城壍【しろほり】を作って居住していたので城辺山とよばれるのであるとみえ、また土蛛が人民をかすめたり盗んだりするので、住吉大神によって誅殺されたとある。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、86-87頁)
『摂津国風土記』の美奴売【みぬめ】の神の物語は、朝鮮出兵などにさいして、能勢の杉を伐採して猪名川を流し、下流の神前の浜あたりで軍船を建造した事実を背景としてつくられた物語であったと考えられる。(中略)この記事によって、猪名川の上流地帯が木材を採取する杣【そま】であったこと、そしてその一部が住吉神社の社領となっていたらしいことが察せられるのである。住吉神社の祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命という三柱の海神で、古くから航海の守護神として敬われた。住吉大神を祭り仕えた氏族は津守氏で、もと北九州の対馬付近に勢力をもった海洋民族であったが、のちに大阪湾沿岸に進出したといわれる(田中卓『住吉大社史』上巻)。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、80頁)
また住吉、住之江の語源について、谷川健一は海に潜ることを「すむ」といい、海神の象徴である海蛇を「つつ」といったとして、住吉、住之江の音韻の起源、また住吉三神の「筒」の起源が海洋文化にあることを指摘している。
肌に蛇(ツツ)の文様を入墨し、海中深く潜って(スンで)いくのを日常の生業としていた「倭(わ)の水人」たち。彼らの前を、鞠のように絡み、もつれあうエラブウミヘビ、隙(すき)あらばと鋭い歯をみせてうかがうウミツボ、身を波打たせながら、去りまた現れる大ウナギなどが、ときには目もあやに、ときには斑(まだら)の色に横切った。彼らはこれを「可畏(かしこ)きもの」とあがめる一方では、自分たちの先祖とみなして親愛なるまなざしを送った。太陽の光線がとどかない海底で、海蛇の類(たぐい)があやしげに乱舞する光景は、そのまま古代海人の深層意識の世界であった。(谷川健一『古代海人の世界』小学館、1995、8頁)
6雨乞
これまで各地を調査した経験から、金属採掘の歴史がある場所には多くの場合水銀朱に関する地名が残っている。それは丹生、仁宇、浦入、女布など様々な表記をとる。また雨乞で有名な奈良県の丹生川上神社の例を引くまでもなく、丹生に関する場所には多くの場合雨乞の儀礼がある。雨乞に関しては能勢町史第五巻に詳細な記録がある。能勢町における最後の雨乞儀礼は昭和30年だとされるが、その際には儀礼の直後、大雨となったという。
雨乞の方法としては、寺社の僧侶や神官による加持祈祷と、地域によっては地蔵尊に縄を掛け池に沈める場合と、山頂にて千束柴を焚く方法等がある。中でも最も大々的に行われるのは千束柴を焚くことである。(中略)雨乞で一番大役とされるのは琵琶湖の竹生島に「火」を貰いに行くことである。雨乞を取り仕切る区長や村長、立会(部落の評議員)によって、竹生島へ行く人選が行われる。(『能勢町史第五巻』能勢町史編纂委員会、1985年、347頁)
ここで竹生島が出てくるのは非常に興味深い。竹生島は多多美比古命(伊吹山)が、浅井姫命(金糞岳)と高さを競い、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とし、その首が琵琶湖に落ちて竹生島になったとされる。この首切りは雨乞での牛馬の首切りを想起させる。また金糞岳の金糞【かなくそ】とは鉄滓【てっさい】のことで、蹈鞴【たたら】製鉄時の廃棄物であって、ここでは、山上での火の儀礼、雨乞、金属精錬、牛馬の供犠が連続性をなす。また牛馬の首を切り落としてそれを水に投げ込む儀礼は近畿地方にその伝承記録が多く残っており、能勢町とほぼ隣接する京都府亀岡市稗田野町佐伯(『新修亀岡市史資料編第四巻』613頁―632頁)、また猪名川の支流である箕面川(高谷重夫『雨乞習俗の研究』法政大学出版局、1982年、400頁―409頁)、最明寺川で行われたという伝承の記録がある(川端道春『宝塚・史跡伝承の寺々』あさひ高速印刷、1994年、87頁)。また能勢と琵琶湖との関係については、猪名川染織所に関する調査の中で、小田康徳氏が地元住民へのインタビューの中で「氏の記憶ではすでに猪名川染織所はなく、大日本繊維の麻工場と友禅工場であること。麻工場は規模が大きく、たくさんの女工さんが働いていたこと。その女工さんは地元の方はほとんどいなく、多くは滋賀県方面からこられていたこと。」(『川西の歴史今昔―猪名川から見た人とくらし』小田康徳、神戸新聞総合出版センター、2018、187頁)との記述があり興味深い。時代は全く異なるが、能勢と琵琶湖沿岸地域との連続性を想起させる記述である。
7海洋文化と星の信仰
これまで能勢が海洋文化と強いつながりを持つことを確認してきた。海洋文化の最も重要な象徴が星である。いわゆる「星のナビゲーション」によって知られる通り、GPSや羅針盤のなかった時代、航海は星を頼りに行われた。星と海とのつながりの強さに関して、人類学者の後藤明は次のような出来事を記録している。
二〇〇七年にミクロネシア・カロリン諸島・プルワット島の航海士マニー・シカウさんを沖縄に招いて海洋博公園まで車で行ったときのことである。カーナビをじっと見入った彼は「これは私たちのカヌーに乗っているときのイメージと同じだ!」と叫んだ。「私たちはカヌーを中心において、周りの島が動いていくと考えるからだ」と。そして「島が動くとその背後に見える星もちがってくる。それで私たちはどれだけ進んだのかを把握するのだ」と。(後藤明『海から見た日本人・海人で読む日本の歴史』講談社、2010、159-160頁)
日本列島における星辰信仰は、その原初的な形をたどれば先土器時代までを考慮せねばならないが(その時代にはすでに長距離航海が存在していたという意味で)、資料はほとんど存在しない。日本列島における星の信仰の嚆矢はやはり宇佐八幡宮であろう。宇佐宮研究の第一人者である中野幡能は次のように述べている。
宇佐宮社家辛嶋勝【からしますぐり】氏のことは辛嶋氏の項で触れたが、辛嶋郷は瀬社近くに小銅鐸が発見されたり、同氏族と葛原古墳が関係が深いとみられているので、この氏族は少なくとも5世紀以前に入ってきたものであろう。「承和11年宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」(「承和縁起」とする)や『託宣集』では辛嶋氏と大神氏の伝承と重ね合せて記されている。そこで「承和縁起」一書から大神氏分と覚しきものを切り離してみると、辛嶋氏は伽耶国亀茲峯に酷似の宇佐郡稲積山を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、のちこの神は 乙咩社、泉社、瀬社、崇峻天皇(588~592)の御代蘇我馬子の時代に鷹居社、改新後の天智天皇(662~671)の御代に小山田社を祀ったという伝承は無視できない。とすると次に、天智天皇以後に小倉山に入り宇佐氏と共同して北辰社を設けたらしい。北辰社は宇佐氏の比咩神と民間道教的シャマニズムの融合を現したようである。このころの民間道教は仏教と融合した道仏習合文化の中にあったし、その北辰社の社殿は中国甘粛省陜西省等にみる道教仏教の建物と同型である。この北辰殿に象徴される神を「原始八幡神」と名づけている。(中野幡能「宇佐八幡宮②〜八幡宮の創祀り以前〜」渡辺澄夫他『大分歴史辞典』大分放送、1990年、177頁)
能勢町史第一巻は妙見堂について以下のように記している。
当山は、もと為楽山大空寺と称する真言寺院の旧址で、天平勝宝年中(七四九~五七)に行基菩薩によって開かれたと伝えられている。その後、能勢頼次が、天正九年(一五八一)に、この大空寺址を出城として塩川・織田軍に対陣している。能勢家は、その祖多田満仲の守り本尊であった鎮宅霊符神が代々伝えられていたが、慶長年間(一五九六~一六一五)に、能勢頼次が寂照院日乾に帰依したとき、日乾はこれを法華勧請し、妙見大菩薩と改めた。(『能勢町史第一巻』能勢町史編纂委員会、2001年、727頁)
ここに出てくる鎮宅霊符神は北辰鎮宅霊符神とも言い、星辰信仰の神である。仏式の勧請により、その後、菩薩となるが、もともとは星辰信仰の神格であった。前段で中野が指摘するように、この星辰信仰は中国大陸や朝鮮半島との連続性が見られる。前段の中野のテキストには「大神氏」が見える。大神氏についてはすでに前述したが、豊能町史では「大国主命を祖とする有力な氏族に、大和の豪族で大三輪神社に関係の深い大神朝臣【おおみわのあそん】氏があるが、能勢郡の神人【みわひと】氏は同じ出雲系の氏族として、この大神【おおみわ】氏となんらかのつながりをもっていた可能性がある。」(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、90-91頁)としており、宇佐宮のはじまりに関わった大神氏は出雲系の氏族、つまり海洋民であり同時に能勢の神人【みわひと】氏とも関係があるとされる。また辛嶋氏の「から」は「韓」であり、朝鮮半島に起源をもつ氏族であることを考えると、能勢妙見の背後に、宇佐宮、台湾や中国大陸沿岸部などで広く見られる媽祖【まそ】(天上聖母)信仰、北極紫微大帝などに対する北極星信仰を見ることができる。媽祖はそもそも海洋女神であるし、星は先に述べた「星の航海術」を例に取るまでもなく、海洋民にとっての生命線であるという意味で、これらの古道教信仰はそもそも海洋性を帯びている。
ところで能勢妙見の起源に町史は行基菩薩を見出すが、日本歴史地名体系「大阪府」(1986年)は能勢妙見の成立には二説あるとしている。一つ目は行基開基説で、二つ目は「むかし野間村山中に降野【ふりの】という地があり、そこへ光り物(北辰妙見大菩薩)が落ちた」とする説である。降野説は正史には出てこない。一般的に行基開基説は日本中のあらゆる造作物について語られる伝承の定型であるので、私は降野説の方がオリジナリティが高く、検討の余地があると考える。その理由は「光り物」の「漂着」というモチーフにある。この起源は、島根県隠岐諸島の焼火【たくひ】神社、大分県国東市の岩倉(櫛来【くしく】)社で行われるケベス祭の起源と全く同じものであり、焼火神社は航海神、ケベス祭はその起源に諸説あるものの、考古学者の賀川光夫は製鉄にまつわる祭としている。海神を祀る島根県隠岐諸島の焼火神社には海中から3つの光が浮かび上がったとする縁起がある。海の光に対する神聖視は海洋文化の特色であり、谷川健一は「海彼【かいひ】の来訪者」 という小文の中で、光物として海原から寄り来る海霊について、いくつもの例を挙げて紹介している。この種の神話は南方、海洋由来であり、沖縄でのウミヘビの打ち上がりも光り物の漂着と言う(谷川健一『漂流と漂着・総索引―海と列島文化別巻』所収、小学館、1993年、16頁)
8「非農業民」という海洋文化
豊能町史では海洋文化に対する分析は存在しないが、「王権と非農業民」という項を設け、考察している。
それにしても、いわば辺地の一山村にすぎぬ豊能地方と宮廷との強い結びつきはなぜ生まれてきたのであろうか。それについては私は、むしろ辺地の山村であったからこそ宮廷との直接的なつながりができたのだと考える。それはこういうことである。大和政権の成立にあたって、各地の農民の集団を服属させ、統一を進めることは容易ではなかったと思われる。なぜなら農業民は本来定住性が強く、自足的で、広い領域にわたる統一支配に服する必然性をもたないからである。そのため大和の王権は統一を進めるにあたって、山の民とか漁民といった非農業民と結び、これを利用しながら統一を進めたと思われる。(『豊能町史本文編』豊能町史編纂委員会、1987年、85頁)
この非農業民のありかたは海洋文化とそのまま重なるものだが、能勢の歴史や地理を語るときに、一貫して立ち現れるイメージでもある。この語りにと符合するのが「能勢」という地名のアイヌ語起源説である。山中襄太の『地名語源辞典』(1968年)279頁にある畑中友次の説(能勢はアイヌ語nos, not(鈍角のアゴのような岬)のなまりとする説)は、畑中の 『古地名の謎―近畿アイヌ地名の研究』(大阪市立大学新聞会、1957年)を典拠とするものである。畑中の業績をふまえつつ関西外国語大学人権教育思想研究所教授の加藤昌彦は、能勢町平通【ひらどおり】、能勢町平野【ひらの】もアイヌ語起源としている。傾斜地であるのに「ひら」「ぴら」の音韻があるからである。(加藤昌彦「「平」らな崖・傾斜地名について」関西外国語大学人権教育思想研究所紀要「人権を考える」19巻、2016年、68頁-94頁)
ここまで諸資料を概観してわかるように、この非農業民のイメージは能勢の地域性を考えるときに重要な概念となりうる。そして、非農業民としての「山の人々」のイメージは正史においても語られるが、同じ非農業民としての海洋文化についてはほとんどどこにも言及がない。この部分に関しては、これまで見てきたように、正史以外の諸資料と接続することで、場所イメージの全体像を把握することができると考える。日本海側、山陰地方、瀬戸内海を通じた瀬戸内諸地域とのつながり、琵琶湖沿岸地域とのつながり、瀬戸内海から外海を通じた朝鮮半島や中国大陸、南西諸島、南洋の諸地域とのつながりなど、そのイメージは拡大しうるし、それによって能勢とその周辺地域のもうひとつの姿が見えてくる。
9作品について
今回、「のせでんアートライン2019」の作品を見たとき、同地域のもうひとつの姿である「海とのつながり」を強く感じた。今回の作品群と海の文化に、何らかの文化的な連続性が存在すると主張しうるエビデンスはない。そのイメージの重なり、つながりはあくまでも偶然であり、それはある種のコンステレーションのようなものであって、偶有的なものである。それは必然のような偶然であり、だが偶然のような必然とも感じられる。
渡部睦子の祭壇を思わせる作品は森の中にある。漁具である網に導かれてそこへと至ると、ハンモックに横たわり、木々の間にある空を見る。時刻は正午ごろで、星は見えない。だが昼間だから星が見えないと言うだけで、そこには確かに星があり、その光は私の目の中に、確実に届いているのである。祭壇の向かう方向は海に違いない。私はそう思い、確認すると、祭壇は大阪湾の方に向って立てられていた。渡部の作品の特徴は、そこには本当は確実にあるのだが、一見するとないように感じられるものを、思い出させ、感じさせる点にある。通称「稲荷山」という丘の上にある船の構造物は西に向かって進む船である。西に向かって進む船は補陀落渡海であり、四天王寺西門の日想観往生を思わせる。海底や海のかなたに魂の帰る場所があり、その場所には時間が存在しない(いわゆる浦島太郎、浦島子の説話がそれである)。そこでは死ぬことは生きることであり、生きることは死ぬことである。生と死は二項対立ではなく、それは同時に存在している。世界は本来、ことほど左様に複雑な深淵であるが、渡部の作品はその無限の世界理解、世界解釈の可能性を、おどろくほどあっさりと、ほとんど何も語らず、ほとんど何もせずに、一瞬で表現する。これは稀有な体験である。
同じような感覚を、私はディエゴ・テオの作品に対しても持った。全ての人は原理的に孤独である。孤独ではないと思っているとしても、それは誤解である。だが、人が原理的に孤独であるということはつまり、全ての人は孤独ではないということもまた意味する。なぜなら、全ての人が孤独であるなら、そもそも孤独という概念それ自体が不要となり、成立しなくなるからである。だが、いま私が述べたような事柄を自覚するとき、人は真の孤独を感じる。それは静かで、心からの孤独である。山道を一人で歩み、かつてそこに住み、生活していた人の気配を感じるとき、そのことを思う。それは私自身にもあり、あなたにもある。良いものでもなく悪いものでもなく、単なる事実としてそこにある。それは海洋文化において、生きるということと、死ぬということが同時にあるその世界観と同じ範型をなす。私はディエゴ・テオの作品に触れ、自らが癒されていると感じた。全ては流れるのだと。
それは井上亜美の映像での死にゆくミツバチの姿や深澤孝史のホームビデオの画質の粗さや、深澤が活動するその家に、かつて住んだ人の気配にも通ずるかもしれない。深澤のリサーチは、人々の、公共化されない個人的な記憶を、ひととき明るみだすものだが、それは説話・伝承の成立過程を思わせる。深澤はまた石仏のワークショップを行っており興味深い。もとより能勢は石仏や石製構造物で知られるが、これは金属器の成立と深い関係があるという意味で、海洋文化圏の特色である。大分県国東半島の磨崖仏は朝鮮半島にその源をみることができるが、能勢のそれも明らかにその系譜に属する。石に何かを刻むという意味では岡啓輔の作品もそうだし、渡邉朋也 a.k.a.なべたんの作品は本来金属でできているはずの物体を非金属で作成するという意味で、金属器文化のオルタナティブであるようにも見える。
拉黒子・達立夫の作品はまさに船であり、コンタクト・ゴンゾの運ぶ石は、丸い石に対する信仰、岩倉や巨石に対する信仰を思わせる。これらはすべて海洋文化圏のそれである。
私の創造や妄想は、単なる思い過ごしかもしれない。全ては偶然であって、作家の意図や、作品の「本当の」意味はべつのところにあるのかもしれない。いや、おそらくそうなのだ。
了
(2019年11月19日)
山田創平(社会学者、京都精華大学人文学部准教授)
写真:渡部睦子「星見るひとたちと出会う旅」
撮影:仲川あい