のせでんアートライン2019 避難訓練

COLUMN

#7

インタビュー2019/10/22

岡啓輔インタビュー
コンクリートのオンバシラを担ぐこと

グリグリと強い線を引く

―「もう一度、グリグリと強い線を引く」という作品タイトルにはどんな意味が込められていますか。

岡:能勢に来て、最初はできるだけ風光明媚なところで何かやるのがいいんだろうなと思ってました。一緒に来ていた友人の育った街、東ときわ台に来てみると、中心部に公園、学校、図書館、ショッピンクセンターなんかがあって、そこから妙見山の方へ向かって真っ直ぐ、かなり立派な緑の散歩道がありました。そのゆるやかな坂道を山裾まで進むと、あともう少し行けば、あとちょっとで山にたどり着くという、その手前で道が終わってしまっていて、「あー、だよな」という気持ちになったんです。

―緑道が山まで通じていないことが理解できたということですか。

岡:そうですね。僕は今、54歳ですけど、20代前半の頃、住宅メーカーで設計をやっていました。ときわ台に建っているような家をたくさん手がけていて、でも、住宅メーカーの設計者は、基本的にその敷地を見ることはないんです。お客さんに会うなんてこともなくて。

―そういうものなんですね。

岡:かなりの数の家を設計したけど、実際に建てられた現場を見たことはなくて、ときわ台に来たときにそれを数十年ぶりに見たなって感じがあった。当時、働いていたのが京都支店で、大阪の仕事も手伝ったりしてたから、実際にこの街に建ってる家のひとつくらい、僕が設計したものだとしてもおかしくはない。

―思いがけず過去の自分の仕事に再会されたと。

岡:けど、当時は気持ちを入れずに仕事をしていたし、どこかでバカにもしてたんです。「どうするんだ、こんな家」って。ひどい話だけど。ところが、東ときわ台を実際に歩いてみたら意外といいなと思えました。

―どのあたりによさを感じられましたか。

岡:外から見るだけでも家屋のメンテナンスも行き届いていて、庭木もよく手入れされて、愛情をもって育てられているのがよくわかる。通勤に時間がかかるかもしれないけど、自然の近いこの土地で家族と過ごしたいという気持ちだとか、教育の意識も高いんだろうなって。ちゃんとした生活を営んでいるという感じがして、これは、いい加減だったあの頃の自分の仕事に対して、罪滅ぼししなきゃという気持ちになりました。

―街の中心から山へ向かう散歩道が山に届いてないのも、その当時の経験から理解できるということですね。

岡:そうです。山まで道をつなげばいいと思っただろうけど、そのためには交渉や許可取りといった要件が増えてくる。きっと思ってはいても、やりきれなかったんだろうなって。推測でしかない、勝手な解釈だけど、当時の自分とも重なるところがあって、「よし、この道を山につなげよう」と思いました。それともうひとつ、「のせでんアートライン」というタイトルなんだから、「アートなライン」「アートな線」ってどういうもんだとも考えてたな。

―言われてみれば、芸術祭のタイトルに「線」「沿線」が含まれていました。

岡:それで、のせでんってどんな会社なのかをまず知りたくて、能勢電鉄の本社を見せてもらいました。そしたら、昔の小さな駅の絵が大切に飾られているし、電車の車内には広告じゃなくて、街のひとが撮った写真が飾られていたりする。これは、なかなかほのぼのとした鉄道会社だなと思って。

―阪急電車と車両も同じですけど、沿線環境も含めてまた違う雰囲気ですよね。

岡:けど、やっぱり大阪という大都市から近くて、阪急と接続しているから、のせでんは持続されてるんだろうなとも思いました。大都市からちょっとの距離で、こんなにいい自然と田舎があるって、東京じゃもう無理ですよ。

―大阪人はもっと能勢の大切さを噛み締めないといけないですね。

岡:だと思う。で、かつての構想では、妙見口から向こう、京都の亀岡まで路線を延長する計画があったらしいけど、向こうの人にそれはやめてくれって言われて、計画は中断したらしくて、その話もすごくいいなと思った。ゴリ押しせずにやめたの、えらいでしょ。おかげで、向こうに日本一の里山と言われる黒川だとか、いろんないい環境が残っています。

―のせでんも途中で止まった線、だった。

岡:ほんとの事情までは知らないけどね、ただ予算がなかったのかもしれないし。とにかく、線を伸ばすか止めるかどうするか。それは、能勢という土地に来て、僕なりに考えたいことだなと思いました。

岡啓輔インタビュー

コンクリートでつくるオンバシラ

―ニュータウンと山をつなぐ道=線を引く。その方法として、巨大なコンクリートの柱をつくって、みんなで運んでいくというプロジェクトの形にされました。どうしてでしょう。

岡:僕自身は、街と山がつながって、もっと開かれている方がいいと思うけど、よそ者の自分が勝手にそれをやっちゃうのも違うんだろうなと。本来は、街のひとたちがゆっくり議論をして考えるべきこと。今回は、そのきっかけになるような部分を僕がやるだけだと思っています。

―確かにそうですね。柱にして運ぶというのは?

岡:ちょうど今回のことを考えていたときに、長野の諏訪に行く機会があって、そこで出会ったお兄ちゃんが諏訪の御柱祭が大好きだって方でした。彼が言うには、諏訪には御柱祭のために生きてるような人たちがたくさんいて、祭が終わって数年間はどこかで会うたびに、祭の反省会をやって、数年後に、そろそろ次の御柱祭をどうするかって話が始まる。7年に1回という祭のスパンがちょうどいいらしいんですよ。

―巨木を山から曳き下ろすというだけでなくて、時間のスケール感も大きな祭なんですね。

岡:そう、やっぱり祭って街を育てるのによく機能してるんだなと思った。御柱祭だけじゃなくて、諏訪には年1回の祭もあって、数年前にたまたま見たけど、それも小さな柱をみんなで担ぐような、要するに建築資材を運んでるだけの祭なんですよ。服装も作業着に地下足袋とかで。みんなが暮らしをつくるための木を担ぐという祭、それっていいなと思います。だからできるだけ人を集めて、街の中心から担いでいくのが筋だなと。

―それが10月26日に「のせでんアートライン」のオープニングとして行われる「逆オンバシラ祭り」ですね。どのくらいの大きさの柱になりますか。

岡:21cm×21cm×20m。道をつなぐためにはこれくらいの大きさがほしい。コンクリートでつくるから、重さは2.2tになる見込み。

―これは大仕事!

岡:たいていのお神輿は20kg超えるくらいの重さに設定してるそうで、たぶん、10kg台だと「軽すぎだよ」ってなるけど、20kgを超えてくると「がんばらねぇとまずいぞ」って重さ。100人で担いで、ひとり22kg。ちょうどいい重さになるはず。

―大勢で柱を担ぐという経験は?

岡:ない。10分の1の重量で担ぐ実験をやってみたけど、なかなか重かった。距離はそこまでないけど、ゆるやかに坂道だし。最後は、山に紐で引っ張りあげるので、そこは落ち着いてやる必要があります。

岡啓輔インタビュー

コンクリートを練る、ズボンを繕う

―岡さんが、自力&即興で建築を続けている「蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)」でもコンクリートにこだわっていますね。

岡:そうそう、その蟻鱒鳶ルと同じ配合のコンクリートをつくります。世間に出回っているコンクリートは、セメントに対する水の割合が60%近いけど、蟻鱒鳶ルでは37%ほど。稠密で硬くて、200年もつと言われるほどのコンクリートです。

―型枠にデザインして、コンクリートを打設して、という作業工程も事前のワークショップで街のひとたちと行いました。

岡:そこはちょっと後悔があって、事前の準備作業みたいな印象になってしまったけど、その作業こそが、実はもうひとつのメインイベント(笑)。というのも、コンクリートを練って固めるのってすごく楽しいんですよ。

―蟻鱒鳶ルの着工が2005年。そこからずっと岡さんはコンクリートを練って、セルフビルドを続けてられますけど、楽しさは変わらない?

岡:いつまでも新しい発見があるし、学ぶことがあるから。だから、街にテニスサークルがあるように、あちこちにコンクリート部とかができてほしいんです。「おまえの家の階段、壊れてきた? じゃあ、この週末にコンクリート部、出動だ!」とかやれたら楽しいはず。

―コンクリートって趣味の領域にまったく入ってきてませんけど、実は楽しそうですね。リアルに街づくりにもつながっています。

岡:友人に聞いた話ですけど、南信州の下條村は、村で資材だけを支給して、道路整備や補修を村人に任せていて、その浮いたお金で若い人に向けて安くで住宅を提供したりして、出生率のとても高い村になったそうなんです。そのやり方はすごくいいなって思う。

―今回のプロジェクトもひとつのいい機会になりそうです。

岡:ほんとにそう、僕自身にとっても。自分の手で何かを建築してみるとか、もっと流行ってほしいんです。というのも今、世界が大転換の時代を迎えていると思っているので。

―どういうことでしょう。

岡:ざっくり言うと、サルが二足歩行で手が使えるようになり、モノをつくり出して、脳みそが発達して人間になった。そこから始まって、人間はずっとモノをつくり続けてきました。僕の母親の世代でも、自分たちで洋服を縫っていたし、懸命に何かをつくっていた。サルから人間になって、モノが足りる暮らしをしたいというのが人間の夢で、それがために戦争までして…という人類の何百万年にわたる夢があって、それがとうとうこの数十年で、モノが足りるようになってきた。

―そう考えるとすごい到達点に立ってますね、我々は。

岡:けど、急にモノが満ち足りてしまって、どうしたらいいかわからない状態になってるなと思う。誰もモノをつくらない人になりはじめて、余ったその手で代わりにスマホをいじるだけの暮らしになっている。ここでモノをつくることをやめちゃいけないと思うんです。でないと、またサルに戻るよ(笑)。

―確かに急速にサル化しつつある気がしてきました。

岡:モノをつくろうといったとき、ただ、アートはちょっと難しいと思います。あれはモノづくりのチャンピオンで、求道者みたいな人たちがやってることで、その真似事をやってもしょうがない。じゃあ、何をつくるかといえば、衣食住のことだと思う。畑で野菜つくるとか、家のベランダを自分でつくってみるとか、みんながそういうことをやりだすべき。

―岡さんは、蟻鱒鳶ルの活動の他にもやっていることはありますか。

岡:もう何千時間と縫い続けてきたみたいな見た目のズボンをいつも履いてます。

―自分で繕ってられると。

岡:そう、なんか縫い物っていいんですよ。昼は仕事してるから、だいたい夜になるとぐったりしていて、かといって、テレビ見て酒飲んでるだけじゃあどうしようもない人生で。そこでラジオなんかつけて、自分のズボンを繕っているとね、だいたい反省が始まる(笑)。あれやったけど、間違っちゃたな…明日になったらやり直そうかな…でも、やり直したら2時間手戻りだな…せっかく手戻りするんだったらもっといい方法ないかな…って、モヤモヤと思いをずっと巡らせるだけなんだけど、その時間がとてもいいなと思ってますね。

岡啓輔インタビュー

アートかどうかはどっちでもいい

―ちなみに、岡さんはアートの世界をどのように見てますか。

岡:2年前に現代美術家の杉本博司さんが蟻鱒鳶ルに来てくれて、いろいろ相談してたら、「蟻鱒鳶ルはアートにしなさい、君はアーティストになりなさい」って言われたんです。20代の終わりに高円寺で、岡画郎といういかにも現代美術的な場所を運営していた経験があるけど、やっぱりアートのことはさっぱりわかんなくて、「オレには無理だな、届かねぇ世界だな」ってあきらめてた。けど、そんないじけた姿勢はやめて、もう一回、素直に向き合ってみようかなと思いはじめてます。

―実際、美術館の企画で岡さんの名前を見ることが増えてきました。ただ、美術館と地域の芸術祭では、また違った経験ですよね。

岡:そうですね。「アートわかんねぇ」と思ってた頃は、やっぱりアートより建築だぜと思っていました。アートなんて、アトリエという自分の空間でつくって、それをお金を払ってまで見に来る、アートを理解しようとしている人たちが集まる美術館のような場所で大切に展示されている。とても守られている。建築なんて、みんなが見る路上に建てて、その後、何十年もそこにあって、いいの悪いのってボロクソに言われたりする。全然、守られてない。そんな思いで建築をやってきたけど、今回のような地域でやるアートイベントは、アートと建築の間にあるものだなって思いました。

―そんな守られた場ではない。

岡:公園で作業をしてたらおっちゃん達に話しかけられるし、冷たい反応やシャットアウトされることもあったりします。イラっとすることもあるけど、やっぱりそんな態度をとるべきではなくて。ちゃんと説明し続けなければ意味ないなと思っているから、そこはがんばりたいですね。

―蟻鱒鳶ルでも地域のひととの関わりがありますよね。

岡:いや、蟻鱒鳶ルはなかなか地域に向けて説明する機会はないです。近所に住んでいてモーレツに嫌っている人も多いし、もちろん、好きで応援してくれる人もいますけど。

―まさに建築の大変さを感じます。

岡:今回は、プロデューサーの前田(裕紀/前田文化)さんが活動してる様子も横目で見てるんですけど、めちゃくちゃ頑張ってますよね。しかも、言葉が信じられるし、とても堂々としている。地域の説明会で何か意見が出ても、自分の中で噛み砕いた言葉ではっきりと言ってくれるから、ほんとに頼もしい。ここで走る? ってくらい、全力で物を取りにいったりするのも、見てるだけで明るい気持ちになる(笑)。

―関わるアーティストとしてはやりやすい。

岡:そう思います。前田さんがやろうとしてることがアートなのか、アートじゃないのか、それもどっちだっていい。アートのことがよくわかってない僕でも、前田さんのようなやり方で十分いいんだ、そうだそうだって、自分に言い聞かせながら進んでいける気がしています。それは、アートの主流ではないのかもしれないけど、こっちはこっちですごく重要なことだろうなと思います。


インタビュー日・2019/09/29
インタビュアー、文・竹内厚
写真・仲川あい

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